2,420日ぶりの首位

 巨人ファンの先輩に言われました。「阪神には計算出来るピッチャーが何人居る?」私は答えられませんでした。その年にいい成績を残していても、次の年にも活躍が期待出来るピッチャーは一人も居ませんでした。「ジャイアンツは斉藤・槙原・桑田で40勝は堅いな。」悔しいけど、何も言い返せなかった。巨人vs阪神で、先発予想がその3人だと一つも勝てる気がしなかった。巨人戦だけではなく、他のチームにも負け続けていました。このころはもう、タイガースは負けて当たり前、勝てば儲け物だと思っていました。こうに思っていれば、「負けても悔しくはないし、勝ったときは他球団のファンよりも何倍も嬉しいはず」という考え方に切り替わってました。
 だんだんタイガースのファンだなんて恥ずかしくて言えなくなっていました。ただでさえ巨人ファンばかりの土地で、なぜわざわざあんな弱いチームが好きなのか。本気ではないが、キチガイ呼ばわりする奴も居ました。自分でも、なんでこんなチームが好きなんだろうと考えた事もありました。他のチームのファンであったならもっと喜ぶ日が多いのに。こんなに苦しまないのに。
 たまに放送されるタイガースの試合も観ないことが多くなっていました。タイガースが勝った日はハシゴして観ていたスポーツニュースも殆ど観なくなっていました。ストーブリーグも全く面白くなかった。引っ張って来る外国人は使えないクズ選手ばかり。ドラフトだって話題に上る選手はハナから指名しない。トレードだって理解不能なことばかりやっていた。次の年に期待できる要素は何もなかった。たぶん、このころが一番プロ野球に対して興味がなくなっていた時期だと思います。
 ところが1992年、驚く事に快進撃を続けるのでありました。前年度も借金34でダントツ最下位のタイガースが、です。毎年、春先はそこそこ調子がいいものの(春の珍事と言われる)、ゴールデンウィーク明けからじりじりと下がり始め、6月にはすっかり定位置(最下位)から動かないあのタイガースが、です。新庄・亀山・久慈(新人王)ら若手がグラウンドを駆け廻り、和田・八木らの中堅が大活躍し、バースの再来と呼ばれたオマリー、横浜から来たパチョレックが打ちまくった。打撃陣だけではない。湯舟(ノーヒットノーラン)・中込・野田のドラ1トリオやこの年奪三振王のマイク仲田、ストッパー田村らの活躍で、6月に入っても勢いは一向に衰えませんでした。当時テレビも、そして数あるラジオ局も巨人戦しか中継しない中、殆ど耳障りなノイズしか聞こえない大阪のラジオ中継にかじりつきながら聞いていました。コンポのアンテナをどう動かしても受信状態が良くならない。しまいには、車でラジオの入りがいい場所まで行って応援していました。深夜のスポーツニュースも欠かさず観た。一つの勝ち負けに一喜一憂した。そしてついに6月9日・対中日戦で葛西がプロ初完封、2420日ぶりに首位に立った。1985年以来、実に7年ぶりの快挙を成し遂げたのでした・・・。
 首位に立った翌日、嬉しくてスポーツ新聞を買いまくりました。職場では、「今日負ければ首位から落ちるのに、何をそんなに喜んでいるんだろう」と馬鹿にする奴もいました。そんなことは言われなくてもわかっている。二位とはたった0.5差だ。だが毎年優勝争いをしている巨人ファンに、首位なんて別に珍しくもなんでもない巨人ファンのオマエに、この嬉しさがわかってたまるか。心の中でつぶやきました。悔しくもあったが、優越感もありました。巨人ファンのオマエには、この嬉しさは一生味わえないだろうと。
 結局この年、野村ヤクルトとシーズンの最終戦のひとつ前の試合まで優勝を争いました。というか、実際はタイガースが優勝に一番近かった。残り15試合、タイガースはスワローズに3ゲーム差を付け首位にいた。焦らなくも、残りを5割でいけば余裕で優勝出来たはずだった。しかし、優勝慣れしていない中村監督(現オリックスGM)とタイガースナインはここから大失速。巨人・ヤクルトに4連敗しあっけなく首位から陥落。その後、なんとか持ち直して残り5試合で首位に立ち、あと3勝すれば優勝出来るところまで漕ぎ着けた。しかし、運が悪い事に残りの4試合がヤクルト戦でした。結果はヤクルトに連敗、続く星野監督率いる中日にも破れた。この中日戦は、星野監督がどうぞ勝ってくださいよ(と、自分には思えた)と衰えの見えた小松を先発。しかし、極度のプレッシャーからか、1点も取れずに1-0の完封負け。この時点でヤクルトにマジック1が点灯。残り2試合、連勝すればヤクルトに並ぶはずだった。しかし、闘い方を知っている野村ヤクルトにタイガースが連勝できるはずがなかった。次の甲子園でのヤクルト戦であっけなく負け、目の前で敵の胴上げを見る事になる。最終戦こそビール掛け翌日のヤクルトに勝利して巨人と同率の2位に落ち着くが、もし負けていたら広島と同率3位になるという、まさにダンゴ状態のシーズンでした。悔やまれるのは9月11日、甲子園球場での対ヤクルト戦。6時間26分という日本プロ野球史上最長の試合で八木が決勝の本塁打。試合は決まったかに思えた。が、審判の判定は覆り2塁打へ。結局、八木はホームに帰ってくる事が出来ず、その後も両チーム点を取る事なく延長十二回時間切れ引き分け再試合。この試合に勝っていればと思うと悔しくてしかたがない想いでした。
 残り15試合の時点で、中村監督は「このペースだと5割でいけば優勝」と言っていました。それがこの状況に慣れていない選手達にプレッシャーとなったことは間違いない(結果は4勝11敗)。シーズン後中村監督は「私があの様に言うんじゃなくて、一戦一戦その日の試合に勝つようにと選手に言うべきだった。プレッシャーをかけてしまって申し訳なかった。チャレンジャーという事を忘れてしまっていた。」と言っていたがあとの祭り。1985年の優勝時、「バースだ!!」と言ってカーネルサンダースを胴上げ後道頓堀川に投げ入れた呪いは解けませんでした。
 しかし、久しぶりにワクワクするシーズンでした。ひょっとしたら‥‥と何度も思った。結果は惜しかったけど、来年に繋がるいい経験が出来た。来年こそは‥‥と多くのタイガースファンが思ったはずだ。
 しかし現実はそんな阪神ファンの思いをズタズタに切り裂くものであった‥‥。(しかし、なぜオリックスは中村をGMにしたんだろう?勝つ気があるのだろうか?)